コラム





Career Column Vol.3 
「音楽には、言葉に通じるものがある」 藤本優子さん(翻訳者)



藤本優子さんは、本校高校卒業後にフランスへ渡り、ピアノの研鑽を積みました。その後ピアノ自体からは離れて、フランス語と日本語の橋渡しをするお仕事をなさっています。

音楽をやっていたということが、言葉を使う仕事に通じるものが多々ある、という彼女の経験談の中には、在学中に将来を見据えようとする皆さんへのヒントが隠されているかもしれません。

フランスへ、そして帰国

Q 早い時期に、フランスへ留学なさったのですよね?

高校はここの音楽科を卒業して、1983年にフランスへ渡りました。

まずマルセイユ地方国立音楽院で学んだのですが、本当に自由にやらせてくれました。
室内楽とソルフェージュが必須だったのに、年度末にぎりぎり知らされて、授業に最後だけ出て済んでしまったので、ピアノ漬けの生活ができたんです。
そのあと、パリのコンセルヴァトアールに行き、エコールノルマルに在籍した時期もあります。
特にパリでは、当日券で行けるコンサートがたくさんあり、値段は日本の3分の1です。また時折、格安やただ券で聴ける機会もありました。
ふらっと行ってそれが最高のものだった、ゆるさがあちこちにある、そんな余裕のある感じが楽しい日々でした。

Q そんな楽しいパリの生活を離れて日本に戻ってきたのはなぜ?

活字が恋しかったんです。今みたいにインターネットで活字が入る時代ではありませんでした。
とにかく本が好きだったんです。
恐らくそのきっかけになったのは、私が3歳から5歳のとき、母が町の本屋で働いていたことです。
バックヤードに、ひもにつながれて放置されていたらしいですね。
ハイハイしていたころから、本さえあれば、おもちゃがなくても泣かない子だったみたいです。
特に子供向けの童話があったわけでなく、難しい本ばっかりだったのに、とりあえず字が読めるような気になって喜んでいたそうです。

最初にマルセイユで下宿していた先では、物置に積んである本を眺めていました。
大家さんの子供や孫が読んだものが、そのまま置いてあったんですね。
よく知られた作品だと、例えばエクトル・マロのペリーヌ物語などです。

フランス語がそんなに分かるわけでもないのに、「読めているだけで幸せ」という、3歳のときと同じ状態でした。
日本語で読んだことのあるものもあったので、単語を飛ばしながらでも徹夜で読破していました。
特に面白かったのはデュマの「三銃士」です。
かなり分厚い本ですが、着いて数ヶ月後の「何か読みたい!」という気持ちを満たしてくれました。


「本好き」が仕事に・・・

Q 本が大好きでも、それをお仕事に結びつけるのは、特に音楽家の場合には珍しいケースなのではないでしょうか?

そうですね。
ひとつのきっかけとして、目が悪くなってきていたことがありました。
いろいろ考えて、とりあえず音楽は開店休業にすることにしたんです。
舞台上で譜面を見ることに支障を来たしていて、暗譜で弾くソロならともかく、伴奏や室内楽を弾くことが難しくなってしまったのです。

それに、自分の中で演奏はやりつくした感がありました。
「あそこに神様がいる」という瞬間を味わったから、とりあえず自分ではもう弾かなくていいや、と思いました。 ピアノをやめてしばらくは、「音楽とは縁を切った。演奏はしない。」という時期もあり、CDも演奏会も聴きませんでした。
でも、翻訳や通訳をしていくうちに、たまたま音楽系の仕事をもらうようになりました。

自分ではピアノを弾かなくても、音楽のために自分ができることを通じて、音楽家たちとも互いに刺激しあう関係が生まれることがあります。
そんな中で、またいろんな縁がつながるといいなと思っています。


翻訳という仕事

Q 翻訳を始めるきっかけになったのはどんなことでしたか?

ずっと前から投稿マニアだったので、何回か雑誌の読者投稿をしていました。
そのうちライターをやってみませんか?と誘われたのですが、まずその前に自分の日本語をどうにかしたいと思ったのです。
日本語を大学で普通に教えてくれるところもありますが、もっと自分に合った形があるのではないかと思い、翻訳を教えてくれるクラスに行きました。

帰国して一年くらいしてからだったと思います。
日仏学院で、普通の時事ネタをフランス人の先生が教えてくれるクラスと、文芸翻訳のクラスに半年、週に3日ほど通いました。
いろんな先生方が、専門分野を活かして教えてくれていて、音楽のアナリーゼを教えるクラスもありました。

Q 藤本さんを、ラ・フォルジュルネなどのイベントやマスタークラスの通訳として知っている音楽家や学生さんも多いと思います。音楽の通訳は沢山やっていらっしゃいますよね?

当初は、レッスン通訳を始めて、そのうちインタビュー通訳もやるようになりました。
プレスリリースの仕事や、映画のプロモーション用に、監督や役者さんの舞台挨拶の通訳もやりました。
でも私の主軸は、部屋にこもって書く翻訳の仕事です。何日も机に向かい続けることもあります。
翻訳していると、著者と同じくらい、言いたいことが分かるようになります。
自分の羽をむしり取りながら「鶴の恩返し」をしているみたいな、身を削る作業のように思えることもあります。

Q ピアノを弾いていたころのご自身が活かされている、と感じるときは・・

翻訳も、音を出すときと同じです。
出したい音があったとして、いくら弾いても出ないのはなぜ?と自問自答しながら一日がんばる・・・翻訳と同じことだと思います。
日本語にしたときに、しっくり来る、ちゃんと響く言葉を見つけ、「調性が違うぞ」、ということにならないようにするんです。

自分なりのやり方やリズム感があって、母音の活かし方まで考えられたら、という意識を持てるのは、音楽が自分にあったからこそだと思います。
また、作家によってかわる描き方のカラーがあります。
それぞれの作家への適切な距離をとりながら、進んでいくことになります。

Q これまで、そしてこれからの取り組みについてお話し下さい。

3年前に訳し終えたのが、ヤスミ・カドラというアルジェリア人男性が書いた二冊で、これは、訳せたら私はもう死んでもいいと思っていました。
そういう作品が出て燃え尽きていたところに、アルゲリッチの本のお話しを頂きました。
正直、音楽系の文章なら、手を動かせば訳せるんです。
自分の知っている世界のことだという安心感があります。

これからのチャレンジとしては、限られた範囲で、紛争地ものやミステリーなどをライフワーク的に訳せたら、と思っています。
それから、新訳でデュマなど出来たら嬉しいし、新しく紹介できるものもいくつか考えています。
体力をつけて、まじめにがんばりますと周りに頭を下げています。

Q これからの音楽学生やそれを取り巻く環境に望むことは?

風通しのいいところで走るなか、もっと面白いものに出会えたらいいな、といつも思っています。
いろんなものを、楽しく聴きにいける場所、楽しめる場所があるといいですよね。
私自身、面白そうなことがあるよ、といわれると走っていくタイプなので、そう思うのでしょう。
それから、いい意味での個人主義が活かせる世界が好きです。

学生さんには、ちょっと分かりにくいかもしれないけど、「自分らしくあれ」という自分の先生(パリで教わったジャック・ルヴィエ氏)に言われていたことを、そのまま若い人に伝えたいと思います。
先生は、ピアノを弾くということにすごいエネルギーを傾けていました。
彼の「本当に才能があれば絶対に大丈夫。」という言葉に一番教えられました。
今の若い人にも通じると思うんです。
自分の才能を見つめるだけ見つめて、自分に合った場所をみつけなさい、ということだと思います。

長い時間、ありがとうございました!




音楽、そして言葉に「自分に合った場所」を見出した藤本さんのご活躍が、これからも楽しみです。
2014年11月13日



インタビュアー・文責 大島路子